北軽井沢 虹の街 爽やかな風

「最後は緑豊かな自然の中で心豊かに暮らしたい」という妻に従う形で移住生活を始めた場所は、活火山浅間山北麓に位置する標高1100mを超える厳寒の地。 北軽井沢スウィートグラスというキャンプ場で働きながら最後の人生を謳歌している。一人の老人が経験する出来事をそのまま書き記していきたい。

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今朝は昨日と同じ11℃で暖かい朝だった。買い物日の今日は予定通り軽井沢ツルヤへ。

買い物後、用があって軽井沢駅へ行った。南口あたりの街路樹は見事に咲いたヤマボウシだ。しかし、よく見ると白い花に混じって同じ木からピンク色の花が咲いていた。

これはちょっと不思議だと思った。帰路、六里ヶ原の浅間山から白い雲が湧き出ていたが、これは雲で、噴煙ではなさそう。梅雨に入って三日目、今日も雨はなかった。おかげで屋根の掃除もだいぶはかどっている。屋根の上でカッコーの声を聞くと、トウモロコシを植えているときに聞いたカッコーを思い出す。エゾハルゼミの大合唱に割って入るカッコーの声はひときわ甲高い。

今、午後10時半だが、外は雨が降ってきたようだ。この雨は、今日掃除した屋根を洗い流してくれそうだ。掃除もこういう風にタイミングがいいと気分もいい。

雨はいいがどうやら台風が来ているという。やれやれ、少々の雨は我慢できるが台風は余分だな~・・・。

 
 

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瀬戸の夕なぎ-。夏の風物詩だ。昼間に吹いていた海からの風が、陸と海水との温度が同じくらいになる夕刻、ピタリ、とやむ。ちょうど、広島市民球場でのナイターが、プレーボールを迎える時間帯だ。
 これがとんでもなく、暑い。また、レフトポール後方からは、強烈な西日が一塁ベンチを照らす(後に巨大な可動式の日よけを設置)。これまた、暑い。
 しかし今はもうなくなった広島市民球場を懐かしむ人は、必ずこの、景色がぼやけるほどのうだるような暑い夏がセットになっているのではないだろうか。
  1957年盛夏(7月22日)。それまで本拠地としていた広島総合球場(現コカ・コーラウエスト広島総合グランド野球場)にはナイター設備がなく、手狭な上たびたび、警備上の問題も起きていたため、広島市内にナイターができる本格球場を、という機運が生まれたのが、その5年前だった。
 50 年、2リーグ分立時に誕生した広島は親会社を持たない市民球団(広島野球倶楽部、55年解散し「広島カープ」に移行)の形をとっていた上、チームも弱かった。創設当初は勝利チームが入場者収入の7割を得るというルールがあり、収入が見込めない広島は、選手への給与も滞り、連盟から再三、解散や大洋(現 DeNA)との合併などを求められた。
 しかし、できて間もない球団でありながら地元ファンの支持は、すでに圧倒的だった。「ないのなら、作ろう」。石本秀一初代監督が旗振り役となり、チームの存続を県内各地で訴えて回った。その一環が有名な樽(たる)募金であり、その延長線上には、新 球場(広島市民球場)建設の夢も描かれていた。
 チームは、創設25シーズンで3位が1回(68年、監督・根本陸夫)、あとは4位以下という弱小だったが、『できの悪い子ほどかわいい』を地でいく愛されようだった。
 それは時として、ファンの暴走行為を呼ぶことにもつながった。総合球場時代には、不利な判定をしたと受け止めたファンが審判員を監禁したこともあった。
 市民球場に移って以降も、たびたび乱入事件があったのだが、クライマックス?はやはり、75年9月10日の中日戦だろう。
 過去1度だけ、3位があった弱小球団は、この年から今にもつながる『赤ヘル』を採用。春先に、その赤ヘルを提言したジョー・ルーツ監督から古葉竹識監督への交代劇などもあった。しかし、26年目を迎えたチームは、快進撃を続けた。
 前年、巨人のV10を阻止した中日と、阪神との三つどもえの首位争いは、広島のうだるような夏を過ぎてもまだ、燃えるような熱気を帯びていた。
 首位広島、2位に1ゲーム差で阪神、そしてさらに2ゲーム差で中日と続く中、迎えた広島対中日(25)戦。両軍の闘志がぶつかった。
 初回から、中日・与那嶺要監督は塁審に猛抗議するなど、中日サイドも必死だ。先発・星野仙一は大下剛史、水谷実雄らに死球を与えても平然、自ら本塁打までかっ飛ばして自軍を鼓舞する。
  しかし悲願の初優勝が現実味を帯びている広島も、黙ってはいない。3点差を追う九回、疲れの見えた星野仙から2点を返しなお、2死ながら走者・三村敏之を二塁に置いて、山本浩二が中前打。三村は本塁を狙うが寸前で憤死、ゲームセットとなった。しかしこのタッチプレーを巡り、三村が激高-、の瞬間、ヒート アップしたファンがグラウンドになだれ込み、中日ナインに襲いかかった。
 9月11日のデイリースポーツでは「広島ファン二千人が暴徒化」という見出しで「大島は左目をボクサーのように腫らし(中略)森下コーチが蹴飛ばされ、星野仙が酒をかけられた」と伝えている。
 中日選手6人が負傷し、翌日の同カードは警備上の問題で中止となった。
 『時代』だろう。同日の甲子園では、阪神に敗れた巨人ファンがビン、缶を、阪神ナインに向けて大量に投げ込んでいる。
 ただこの時の広島ファンについては、25年間ため込んだ愛情のマグマが一気に噴出したもの、と思いたい。
 広島の熱い、熱い季節は終わることなく、10月15日、ついに大願成就の時を迎える。
 郷土愛を受け止め、市民と二人三脚のようにチームを育ててきた広島市民球場は今、右中間スタンドの一部を残して更地となっている。
 
私が子供の頃、初めてカープの試合を見たのは、広島県営球場だった。原爆投下で焼け野原となった広島の人々は、弱かったけれど、カープが大好きだった。カープが初優勝した時、私は広島市民球場でその瞬間を見ているが、広島駅近くにできた現在の休場は見たことがない。この新しい球場で25年ぶりのリーグ優勝は目の前まできた。熱狂するカープファンの動きが気になる。9月になり、カツラの木の黄葉が

はじまり、ヤマボウシの実が赤くなり始めた。

二日目の朝、爽太は枕元で鳴り響く目覚ましの音で目覚めた。晴れた空はくっきりと青い。爽太は昨日の疲労などすっかり忘れていた。野菜の販売という初めての経験と店で会う初めての人々との出会いのなかで、爽太は精いっぱいその日を生きようと思った。

午後から大山優夫妻が来てトウモロコシやキャベツなどをどっさり買ってくれた。明らかに買い過ぎだとわかったが、嬉しかった。グルジイは爽太を見て、すっかり野菜売りのオジサンになりきっている、と笑う。彼はここで知り合った数少ない友の一人だが、その後も長く交際は続くのだった。

その日は200本のトウモロコシは完売したが、最後に残った10本を売るのが難しい。

数が少ないと売れ残りという感じがするからだ。キャベツは30個ほどだが、これは午前中に難なく完売した。出足の二日間は好調な売れ行きで、直売店での販売は簡単だと思った矢先、三日目からはトウモロコシが50本売れ残り、キャベツも5個、社長が仕入れてきたナス、トマトも少し売れ残った。販売方法を考えなければと思うが、収穫作業の疲労でもうろうとする日もあり、これでは長続きしないと思うようになっていた。

 

店で野菜を売り、閉店後に野菜の収穫という毎日が続いていた9日目の7月26日ことだった、収穫作業をしていた畑で、突然黒い雲が一面を覆い、ゴロゴロと雷が鳴りはじめ、大粒の雨が降り始めた。爽太は急いで軽トラックに逃げ込んだ。雨は激しく降った後、雹に変わり大粒の雹が軽トラックを叩くように降ってきた。はじめは雨交じりでコン、コンとトラックの屋根に落ちていたが、その後、雹は1センチほどの大粒となり、バリバリと軽トラックを襲ってくる。そしてまるで大砲の球が近くに落ちたのかと思うほどの落雷が続いた。不気味な暗さの中でポツンと一人、広い畑の中で爽太は一瞬不安に襲われた。こんな雹の降る中で過ごした経験はない。爽太は携帯電話で社長に連絡し、雹が降っていることを伝えたが、そんなに遠くではないのに社長のいる場所は何も降っていないという。社長がすぐにくると言うので少し安心して爽太は空を見つめていた。

 

しばらくして、これは夢ではないかと思うほど天気は急変、辺りはさ~と明るくなった。

軽トラックから出た爽太の周りには大粒の雹が一面にあったが、森の向こう側にきれいな虹がかかった。そしてその虹は二重になっていて、爽太は初めてみる二重の虹にカメラを向けて何度もシャッターを押した。後に分かったことだが、ここではこのような天気の急変は珍しくはないのだった。そして、時折このような雹も降るらしい。急いでやってきた社長はキャベツ畑に入り、しきりにキャベツをチェックしていた。キャベツは葉が硬いので大丈夫だったらしいが、レタスには大きな被害が出たという。普段忙しい社長と話す機会がなかったが、ここはチャンス到来と思い、爽太は思い切って野菜収穫の作業は、販売店の仕事に影響が出ることを伝え、これ以上は体力がもたないと話した。

強い口調で訴える爽太に、社長もそれを理解したようで、翌日からは販売に専念することになった。思わぬ天候の異変は、結果的にはその後の爽太が、販売に専念できるというラッキーな異変となった。

 

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先日、卒業した高校の同窓会会報が届いた。ここに来る前、今から10年前にも「積極的に生きる」のタイトルで寄稿したが、この度は「人生は二度ある」という文章が掲載された。私は現在、週一で小説を連載しているが、この寄稿の内容が最後のクライマックスに絡んでくるので、アップしてみた。

 

私は八年前、六十五歳の年に群馬県の静かな森の中に移住した。「最後は緑豊かな自然の中で暮らしたい」という妻に従う形になったが、私は「送別会では寂しいので激励会だ」と言って温かい声援をおくってくれた13期の友人たちに励まされ広島を後にした。

そこは知人のいない、しかも標高1100メートルを超える厳寒の地で、冬には氷点下二十度にもなる場所だ。なんとか住む家は確保できていたので生活には困らなかったが、知らない土地での生活には不安もあった。しかし、徐々に地元の人や知人にも恵まれ、人生で初めてのアルバイトを経験してから一気に新しい人生が開けていった。スキーの経験もないのに貸スキーの店で働いたことがきっかけで、トウモロコシを植えたり、茄子やキュウリ、モロッコいんげん等の収穫をする農業の経験を経て野菜直売所を任された。その後はたまたま近くに在ったオートキャンプ場で働くようになり現在に至っている。そしてキャンプ場で働くようになってから五年が経ち、今ではリーダー格となって毎日を楽しく過ごしている。ここは活火山浅間山の北麓に位置し、大自然に恵まれた素晴らしい場所だ。浅間高原の大自然に抱かれて過ごすここでの生活は、まさに人生の楽園。私は今まるで二度目の人生を過ごしているように感じている。

卒業してすでに五十五年の時が過ぎ去ったが、私には今でも大切にしている思い出がある。それはヴァイオリンの名曲チゴイネルワイゼンの旋律とともに思い出される初恋の思い出。「さよならは別れの言葉じゃなくて、再び逢うまでの遠い約束・・・」と澄んだ声で唄う薬師丸ひろ子の瞳は、今でも昔の恋人のそれを思い出させる。

「青春とは、人生のある期間ではなくて、心の持ち方をいう。頭を高く上げて希望の波をとらえるかぎり、八十歳であろうと人は青春の中にいる」とサムエル・ウルマンの詩にある。人は過去にこだわることより、今を生きていることに価値があるに違いない。しかし、心のほのかな思い出にもまた少なからず価値がありそうだ。

 
 
 
 

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先日、いつも話している広島のフルイチビジンさんに嬬恋のキャベツとトウモロコシを送った。同期の友人たちにもおすそ分けしてくれたようで、私が日本一と自慢しているトウモロコシの「恵味(メグミ)」は大人気だったという。夏になるといろいろな場所で野菜の直売店が開かれるが、私は近くの「ファミリー」という店から送った。この店は8年前にブログで紹介したことがある店で、看板娘はもうあれから8歳も歳をとっている。いつも明るく元気な娘さんである。
 
そして今度はフルイチビジンさんから荷物が届いた。いつものようにいろいろと入っていたのだが、その中には同期の友人からの品もあった。ハーモニカのマツイ君からは津和野の源氏巻が、子供の頃のまんま歳をとったと言われているヨウコさんからは、倉橋のヒジキが、またマルイチ食品という佃煮屋さんをやっているイシモトさんの佃煮があった。
津和野も倉橋も私はよく仕事で行った場所で思い出が深い。マルイチ食品も行ったことがあり懐かしく思い出している。どれもみな有難く感謝している。
 
移住生活も9年目に入っているが、フルイチビジンさんのおかげで、時折広島の情報をいただき励まされている。自らビジンと名乗るほどの自信家なのだが、長く会っていないのでその皺の数や体重の変化などは、私としては想像するほかないのである。
しかし、私とは馬が合うというか何か引き合うものがあって、交際も長く続いている。
美人薄命と昔から言われているので、私よりも早くあちらに行きますからといつも言っているが、メールなどから想像するあの身体では、なんのなんの私などはとてもかなわないと思っている。料理上手の世話好きで、自らお節介オバサンを自認しているほどの陽気な性格である。おかげで私たち同期のものは元気をもらっているというわけだ。
先日送られてきた高校の会報に私の寄稿文が掲載され、最後に私のブログの紹介が記されているので、全国の同期の人たちがこのブログを見て、フルイチビジンとは誰なのか、と想像するのもいいだろうが、おそらく99%の人たちが、その人が誰かはすぐに分かるだろう。
そういうつもりで書き始めたわけではないが、なぜか今日はフルイチビジンの回し者のような文章になってしまった。でも、まあいいか!
 

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